インスタグラム
店のインスタグラムに投稿するための写真を毎日撮っている。今年2月に再スタートさせてからは、無理の無いかたちで毎日投稿してきた。店舗のスタッフが始めてくれた投稿を中断させることになってしまい、1年近くの放置が店のイメージを悪くしてしまわないかと少し心配していた。
SNSはやや苦手だ。Facebookにも店のアカウントがある関係で、個人のアカウントもつくってあるのだが、誕生日おめでとう、のメッセージが来ると、返信内容に困ってしまう。「ありがとう」でいいはずなのに、色々な文言を考えたあげく、ほぼ「ありがとう」くらいの返信で終わらせる。そして、おめでとうのメッセージを送ってくれた人の誕生日に、こちらからもおめでとうのメッセージを送るべきなのではないか、という強迫観念に悩まされる。小学校4年生のときに母親に言われた「もう大きいから誕生日はやらなくていいね」っと。だから家では誕生日祝いはなかったし、両親の誕生日も祝わないものだから、両親の誕生日は覚えられなかった。だから40になっても50になっても誕生日を祝っている人たちに違和感を感じてしまう。本当に嬉しいのだろうか。
SNSは世の中の多数派の価値観を押し付けられるような恐怖を感じてしまう。美味しいもの情報もそのひとつだ。美食は文化として素晴らしいのは十分にわかっているつもりだが、最近の私は、食わずに生きてゆけるものなら、食わずに居たい、と思っているので、とても美しい写真でない限りは、食べ物の投稿写真に不快感を覚える。特に肉や魚をほとんど食わなくなったので、こってりとした肉料理のアップなどはすぐに見るのを避けてしまう。
インスタグラムはまだマシである。たんたんと写真を撮っては投稿しているだけで許されるからだ。ただ店としてのオフィシャルなものなのが悩ましい。半年以上続けてきて、やっと慣れてきた感じだ。人の誰もがいだく承認欲求が前提なのだから、みんなに「いいね」してもらえる写真を投稿すべく努力するのが当然ではないか、っと思う自分と、「写真」の芸術的側面を意識するとき、承認されなくたって良いものは良いのだから、「いいね」は強く意識しすぎない方がよい、っという自分との戦いだ。インスタグラムを自己表現の場だと書くユーザーの方もいた。日記のように使っているユーザーもいる。写真をどう使うのか、どう見るのかは人それぞれで、非常に幅が広い、その解釈のされ方も様々だ。
文章や写真は恐ろしくもある。その人の柄が出てしまうからだ。その人の価値観や人生観も透けて見えてくる。何を基準に投稿してゆくのか今だに少しふらつく。店の広告的な位置付けとして見れば良いイメージを構築してゆきたいという思いが捨てきれないし、ブランディングなどという言葉が頭をよぎるとやはり怖くなる。そんなこんなになってしまうから、まずは楽しんで写真を撮ればよいのだ、と思ってやってゆくしかないのだとも思う。そんな大げさに考えることはないよ、っと誰かに言われそうである。だから自分の信念を大切にして、たんたんと投稿していくしかないのである。ビビリは当たり前だし大切だ。
2018.10.02 Hitoshi Shirata