交通事故にあい、車のリア部分ぐしゃぐしゃです

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昨日、クルマをぶつけられた。赤信号で停車した列の最後尾で4tトラックに追突された。ふと、バックミラーに目をやった時には、けっこうなスピードで迫ってくるトラックがすぐそこに映っていた。その数秒後に後頭部に激痛が走る。追突相手の脇見運転である。ライターに火を付けていたとのことだ。

ひと月程前、仕入れ先のご主人が首都高走行中、渋滞列の最後尾で追突されて大変だったという話をしてくれた。なんだか他人事だとも思えず、毎日クルマの運転をしている自分にも十分に起こりえることだと思っていた。そして昨日はそんなことが起きてもおかしくない精神状態だった。あまり気持ちが乗らないままに向った骨董市で何も買えず、やっぱりいつものパータンだったな、と思っていたその直後に起こった事故だった。些細な欲望に掻き消されて心に霧がかかったようになり、ヴィジョン実現の行動から遠ざかっているような感覚の時だった。まるで、この事故は自分が引き寄せたかのように思えた。

ときどき骨董市を見にいくが、良いものが見つかるときは、骨董市前日の就寝前くらいから良いものが見つかりそうな気がしているものだ。古物を見るのが楽しみで仕方がない時だ。ところが、商売のために、あれがあったらいいな、これがあったらいいな、っと、目先の欲望で気持ちがいっぱいのときは、たいてい何も見つからない。小さな欲望だらけの時は、ひとつも買えるものが見つからないのだ。欲しいものが見つかるときは、薄っすらと記憶に残る程度に意識できていながらも、それを手に入れたいということをを忘れて、古物を見ることを楽しめているときに限るのだ。よく骨董好きの人が言っている、自分好みの物は自らを引き寄せてくれるのだという、あれである。

花卉市場の仲卸しで仕入をしている時も同じだ。あれが無いと困るから、今日はあったらいいな、っと思っている時には大抵見つからない。記憶にだけは残っていて、園芸植物やその価格を見てまわることを楽しめている時に良いものに出くわす。しかも、欲しかった物、ズバリの物よりもっと良い物が現れたりするものだ。しかも同じ品種でも培養鉢や株のでき具合いの少し違うものに出くわし、新しい商品のアイディアが生まれたりもする。盆栽の仕入やサボテンの仕入もほとんど同じだ。人は視界に入る物を全て見ているようで、実は見たいと思っているものしか見ていないのだ。意識下の記憶に留めていないものは、たとえ目の前にあっても見た事になっていない。昔々のヨーロッパの大航海時代に、ヨーロッパの大型船がアフリカ大陸に近付いた時、目の前の近づく大型船にアフリカの原住民は全く気付かなかったそうである。気付いたのは、その船のクルーが小船に乗って上陸した時だったそうだ。

カン、というのは、経験の積み重ねで身につくものだと言われる。知識や理屈では解決できない何物かである。読んだことはないから何が書いてあるのか解らないが、「運を引き寄せる方法」や「お金を引き寄せる習慣」みたいなタイトルの本はそこらへんのニュアンスを常日頃感じてるいる人達が書いているのかな、っと勝手に思っている。私はお金や良運を全く引寄せていないから、誰も相手にしてくれないが、自分の欲求を実現するための思いの巡らせ方や生活習慣というものがあるように思う。数日前にアメリカで20代の男性が200億円くらいの宝クジ当選金を手に入れたというニュースの中で、その男性はこの宝クジで自分が当たるような気がしていた、っと言ったそうだ。当選の連絡を受けた時も身の回りにいる家族に当たったことを冷静に伝えたそうだ。ついでの話しで、且つとてもくだらない話しだが、私が若い頃に、よくある当たりルーレット付きの飲料水自販機で飲み物を買ったとき、選択ボタンを押した瞬間に、「当たった」と思ったら、やはり当たりがでていた。その後、当たりルーレット付きの自販機に出くわすと、当たるかもしれないという欲望が先立ってしまうためか、当たったためしが無い。今はもうそんな自販機無いのかな。

何はともあれ、私の車の前方の車に被害が及ばず、私に大怪我が無く、不幸中の幸いと思うことにしよう。今日からしばらくはレンタカーでの仕事だ。傷だらけだった車の車体が、ピッカピカになって帰ってくることを期待して、笑顔で前向きに過ごすことにしよう。

2018.1.14  Hitoshi Shirata

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