骨董と盆栽

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NEO GREEN ではプランターとして使ってもらえるような骨董の器を販売しています。骨董とはいっても古い農家の倉で眠っていたような民具で、なおかつ植木鉢が入りやすい形状のものを、神社などで催される骨董市に通ってこつこつと集めています。

私が初めて骨董屋で買い物をしたのは高校生の時。その店は駿河台下の三省堂書店本店の裏あたりにあった骨董館のようなビルに入っていました。そのビルには100店舗くらいが入っていたでしょうか、今思えばその頃はまだ大衆骨董ブームが続いていたのだと思います。しばらく行かない間に無くなってしまいました。

なぜ古道具に惹かれるのか? 使い古された道具の風合いに自分なりの物語りを描くからでしょう。物語は人それぞれの経験や知識の量によって違ってきます。買ったときには魅力的に見えた品物が後に色あせて見えたり、また益々愛着が湧いたりもします。ですから手放すものもあれば、新たな物語をみたくて新しい物が欲しくなったりもします。

盆栽も古道具に似ているところがあります。盆栽は自然の風景を表現してあり、その盆栽の縮尺に自らが入って行き、その風景の中を逍遙している気分にさせられるわけですが、その描ける物語も観る人それぞれの経験や知識により変わってきます。松柏のぐにゃりと曲がった幹は、厳しい自然環境で生きている様を表現しているわけですが、大自然などは見たことがない人や盆栽を見慣れない人には単なる盆栽様式にしか見えないでしょう。

マン盆栽なるものがうけている昨今ですが、そこそこ売れていた小説が、映画化されたら大ヒットをしてしまったような、そんな映画のようなものです。文字を読み慣れている人には断然小説の方がイメージが膨らんで面白いはずなのですが、具体的にイメージを限定させてわかりやすく娯楽化すると、一気に大衆受けをすることに似ています。マン盆栽も盆栽の形式や型に縛られずに楽しめるPOPで素晴らしいものですが、瞬間的な感動に終わってしまいます。同じフィギュアの配置の盆栽を長期間味わうことは困難なのです。

ところで、骨董にも流行があるのです。ほとんどの骨董品が生活道具に近いものですから、その品物がよく見えるかどうかは住環境によって大きく変わります。床の間が付いているのが当たり前だった数十年前の建て売り住宅と現代の一般的な住居の中とでは美しく見えるものが違ってきて当然です。欧米化されてきた生活スタイルの変化とともに人気となる古道具も変化してきているのです。

ですから当然、室内に飾ることが前提である盆栽も、時代に影響を受けます。お金持ちになったら庭付きの家を建てて盆栽を所有するような生活をしたいと思っている人はほとんどいないでしょう。必然的に国風盆栽展に出ているような盆栽を所有して楽しめる人は都市部には皆無なのです。現代の住空間と調和する盆栽ははたしてどのようなものでしょうか? 日本の都市部で広々とした家に住んでいる人はほとんどいないので、まず巨大な盆栽は難しいでしょう。また狭い空間との調和を考えれば、盆栽自体も作り込み過ぎていないものでないと、モダンな空間には合わないはずです。

盆栽の値段はまるで骨董の値段のようにとても不安定なものです。ですから、はるか昔に千利休が朝鮮の雑器を茶碗に見立てて新しい美意識を創り上げたときのように、盆栽家が見向きもしない駄作扱いの盆栽が、あなたの家では数百万円の盆栽にも劣らない作品になりうる時代なのかもしれません。新しい時代の波はうねり始めているのです。

2010.3.26  Hitoshi Shirata

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